「こちらにレンちゃんの父親を名乗る人物がおります」レンの担任の先生が琢磨と舞を案内したのは園長室だった。ドアの前に立つと先生は小声で言った。「男性はかなり興奮しているようなので気を付けて下さい」そして頭を下げると足早にその場を去って行く。「く、九条さん……」舞が不安げに琢磨を見る。「大丈夫です、私が一緒ですから」琢磨は舞を心配させないように力強く返事をした。だが……。(相手は父親だ……。そして彼女は定職についていないフリーターでましてや独身。裁判所に訴えられれば父親の方に有利に事が進むのは目に見えている。一体どうすればこっちが優位に働く……?)「あ、あの……九条さん。中に入らないのですか?」「いえ、すみませんでした。行きましょう」琢磨は一度深呼吸すると、扉をノックした。――コンコン「本田さんですか?」すると部屋の中から女性の声が聞こえた。「はい、そうです」「どうぞお入り下さい」琢磨はその言葉を聞き、扉を開けた。目に飛び込んできたのは部屋の中央にある長テーブルを挟み、向かい合わせにソファに座る2人の人物だった。右側には初老の女性、左側には……。「あ……お、お前は!」レンの父親と名乗る男は琢磨を見ると一瞬で顔を歪めた。「失礼致します、私は九条琢磨と申します。本日は本田舞さんの付き添いで一緒に参りました」琢磨は平然と挨拶をした。「本田舞です。遅くなりまして申し訳ございません」舞は頭を下げた。「お待ちしておりました。どうぞこちらへお掛け下さい」初老の女性は場所を移動し、琢磨たちの正面の椅子に座ると自分が先ほどまで座っていたソファを示した。「はい、失礼いたします」琢磨はさっそうとソファに向かうと座った。舞もそれに習い、琢磨の隣に座る。その様子をレンの父親は睨み付けるように見ていた。舞と琢磨がソファに座ると、早速男が口を開いた。「あんた一体何者だ? 言っておくがな……俺とレンは実の親子なんだ。息子を引き取りに来て何が悪い?」まるで酒にでも酔っているかのような乱暴な口調に琢磨は眉をしかめた。(何なんだ? この男は……随分乱暴な男だな……)すると舞が負けじと言った。「父親? ふざけないで下さい。貴方はレンちゃんの前でも姉に暴力を振るっていたそうじゃないですか? 子供の前で母親に暴力を振るう……それだってレンちゃん
「その男は一体どうやって本田さんの居場所を突き止めたんでしょうね?」琢磨はハンドルを握りながら尋ねた。「興信所を使って調べたそうです。本当ならレンちゃんの居場所を突き止めることも出来たそうですが、下手に近付いて誘拐犯にでもされたらたまらないと思ったそうですよ」「そうですか。興信所を利用して……。興信所の人間は鼻が利きますよね。私は興信所の調査員の知り合いがいるんですよ」その時、琢磨は航のことを思い出していた。「そうなんですか? さすが社長さんですね? 興信所で働いている知り合いの方がいるなんて」舞は感心している。「いや……それほどの人物でもないですけどね……」(何せあの航だからな……)琢磨は苦笑した。「とにかく、それでレンちゃんを自分に渡すように迫ってきたんです。でも私は断固拒否しました。姉からの遺言だったのです。絶対にレンちゃんを父親には渡さないで欲しいって。姉の離婚の原因はあの人からのDVだったのですから」「DV……」琢磨は幼稚園で会った時の状況を思い出していた。確かに言われてみればあの男は今にも舞に手を上げそうな素振りを見せていた。「それなら尚更レン君を渡すわけにはいきませんね」「はい。そう思って私は必死であの子を守ってきたのに……まさか幼稚園の運動会にやって来るなんて思いもしなかったんです」舞は制服のズボンをギュッと握りしめた。「本田さん……」「今もこうしている間に勝手にレンちゃんを連れて行ったりしていないかと思うと心配で……」舞の身体は震えていた。「まだ幼稚園に着くまでは時間がかかりそうなので一度電話を入れて確認してみてはいかがですか?」「言われてみればそうですね。分かりました。すぐに連絡を入れてみます」舞はスマホを取り出すとタップし、電話を掛け始めた。「あ、もしもし。本田ですけど……。あのレンちゃんは大丈夫ですか!? え? 無事? 良かった……。え? まだ父親は幼稚園に居座っているんですか? ……はい。今幼稚園に向かっているので、もう少しだけ待って下さい。はい。よろしくお願いします……」舞はスマホを切ると溜息をついた。「どうやらまだ父親は幼稚園にいるようですね」「はい、そうなんです。園長室にいるようで、レンちゃんを引き渡せと訴えているそうです」「急ぎましょう」琢磨はアクセルを踏む足に力を込めた――
「え? で、でもそれではご迷惑では……」舞は戸惑った目で琢磨を見た。「ですが貴女が1人で行っても何とか出来るとは思えませんからね」琢磨は運動会での出来事を思いだしていた。「そ、それは……」俯く舞。「とにかく、今はそんなことよりも早く幼稚園に行かないと。いつお子さんが連れ去られてしまうか分りませんよ?」「!わ、分りました……。お願いします……」琢磨は頷いた。「よし、では早速行きましょう!」そして琢磨と舞は一緒に幼稚園に向かうことになった――****「あ、あの……本当によろしいのでしょうか?」会社ビルの地下駐車場に駐車していた琢磨の車に乗り込むと舞は尋ねた。「ええ、問題はありません」琢磨はナビをセットしながら答えた。「でも……大企業の社長さんなのに……」「そんなこと気にしなくて大丈夫です。では行きましょう」琢磨はハンドルを握りしめ、アクセルを踏んだ――****「あの……社長さん……」車を走らせるとすぐに舞が話しかけてきた。「社長さんはやめて下さい。私の名前は九条琢磨といいます」「そ、そうですか……あ、私の名前は本田舞と申します」「本田舞さんですね。分りました」「私と子供の関係についてお話しておきたいことがあるのですが……聞いていただけますか?」「そうですね。出来れば教えていただきたいと思っていました」琢磨はチラリと舞を見る。「はい、あの子……レンは私の子供ではありません。亡くなった姉の子供なんです……」「お姉さんの……」「私と姉は両親を子供の頃に亡くし、ずっと静岡に住む母方の祖父母に育てられてきました。そして姉は大学を卒業すると、すぐに就職のために上京し、2年後に突然男性を連れて帰って来たのです。この人と結婚したいと言って」「それはまた随分唐突な話ですね? その相手があの少年の父親ですね?」「ええ。でも相手の男性は初婚ではなかったことで祖父母は絶対に認めず、2人は去って行きました。その後すぐです。結婚の知らせが届いたのは」舞は俯き、ギュッと手を握りしめた。「なるほど……お姉さんは結局あの男を選んだのですね」「はい。そして私も都心の大学に入り、上京して1人暮らしをしていました。姉とは電話やメールのやり取りしていました。姉の子供が生まれた時も連絡を貰ったし……。そんなある日突然姉から離婚の知らせを受け取
(困ったな……何を話せばいいんだ……?)会話の糸口が見つからず、困っていると意外なことに舞から話しかけてきた。「本当に大きくて素敵な会社ですね」舞はカフェオレを一口飲んだ。「え? ああ……そう言ってもらえると光栄です」「いいえ、光栄なのはむしろ私の方です。『ラージウェアハウス』は1カ月に4~5回は利用させていただいてるので今はゴールド会員証を持っています。だから会社の中はどうなってるのかな~とか、ずっと興味があったんで。今回こちらで清掃の仕事が入った時は嬉しかったです。しかも本社でのお掃除の仕事なんて」「そうなんですか? それではユーザーの意見を聞かせていただけますか?」(ゴールド会員なんて……かなりのヘビーユーザーじゃないか。貴重な意見が聞けそうだ)琢磨は思った。「え……? 意見ですか……? 私の意見で良ければ…」舞はちょっと迷いながらも話し始めた。「あの~私が幼稚園に通う男の子と暮らしているのはもうご存じですね?」「はい、知っています」「それで私がその子の母親では無いことも……」「……ええ、そうですね」本当は琢磨は自分から色々尋ねたいことがあったが、出会ったばかりの相手にぶしつけに質問をることは出来なかった。「私、大学を卒業してから、就職にあぶれちゃってフリーターなんです」「え?」「それに保育園にも入れなくて……15時にはお迎えに行かないといけないんです。それ以降は延長料金が高くて。」「……」琢磨は黙って聞いている。「それで17時からは21時まで介護施設で働いているんです。そこの所長はとても良い方で子供を預かってくれるんですよ」(何だか随分重たい話になってきたな……よほど生活に困っているのかもしれない……)「なのでとにかく買い物に行く時間も無いので、ミールサービスも手掛けてくれていればいいなって思いますね。しかも朝頼めば夕方に届けられるとか……」「ああ、なるほど……それは良いかもしれませんね。貴重なご意見として社長に相談してみますよ」琢磨の言葉に舞は怪訝そうな表情を浮かべた。「え……? あ、あの……てっきり貴方が社長さんだと思っていたのですけど……」「ああ……確かに私も社長ですけど、雇われ社長ですからね」「そうだったんですか」その時――プルルルル……突然舞の首からぶら下げていた携帯に着信音が聞こえて
琢磨と二階堂がオフィスで打ち合わせをしている間、舞は一生懸命窓ふきの清掃をしていた。時折、キュッキュッと窓を拭く音が聞こえてくる。(真剣に仕事しているな……)琢磨は時折、チラリと舞に視線を送っていると……。「おい、聞いているのか九条」突如二階堂が声をかけてきた。「き、聞いていますよ!」慌てて答えるも、二階堂は意地悪そうな笑みを浮かべた。「嘘言え……俺が何も気づいていないとでも思ったのか? 見惚れていたんだろう?」「な、な、何を見惚れて……!」「花に」「え? は……花?」「ああ、そうだ。ほら、見ろ。昨日、業者に頼んで花を届けてもらったんだ」見ると、窓際の近くに置かれた観葉植物の隣には長細い大きな花瓶に美しい色とりどりの花が見事に飾られていた。(え……? いつの間にあんなものを…?)「どうだ? 美しいだろう? あれに見惚れていたんだよな?」二階堂がさらに尋ねてくる。「え、ええ……もちろんですよ」すると突然グイッと二階堂が顔を近づけてくると小声で言った。「嘘言え」「は?」「九条、お前さっきからずっとあの女性清掃員ばかり見ていたぞ? 俺が気付いていないとでも思ったのか? さては一目惚れでもしたか? だが、かなり若そうに見えるぞ? お前よりだいぶ年下かもしれん」「な・な・な・何を言ってるんですか!」琢磨は真っ赤になって思わず大声を上げてしまった。その声に驚いて振り向く舞。「あ、い、いえ。何でもありませんよ。どうか気にしないで下さい」琢磨は慌てて舞に謝罪の言葉を述べる。「はい」舞は頭を下げると再び窓ふきを再開した。(全く……とんでもない人だ……!)琢磨は心の中で溜息をついた――**** それから約1時間後――「あの、窓ふきの清掃終わりました」清掃用具を片付けた舞が2人に声をかけてきた。「ああ、どうもありがとうございました」二階堂は笑みを浮かべると窓ガラスを見た。「へ~ピカピカですね。曇り一つ無いですね。うん、やはり流石プロだ」腕組みしながら感心したように言う二階堂を琢磨は半ば感心、半ば呆れながら見ていた。(全く……口がうまいんだからな。だから女性にも勘違いされやすくて時折夫婦げんかに発展しているんだろう)等とが琢磨が考えていると、二階堂がとんでもないことを言ってきた。「あのもしよければ、コーヒーを
「あ、おはようございます。社長」琢磨は椅子から立ち上ると挨拶をした。「おはよう、琢磨。ところでお前、こんなところで何してるんだ? ここは打ち合わせ用の部屋じゃないか?」二階堂はがらんとした部屋を見わたす。「ええ、そうなんですけど……。って言うか何故俺がこの部屋にいることを知ってるんですか?」「ああ、それはな、お前の部屋に行ったら窓ふきの清掃員しか姿が見えなかったからだ。それでお前の行方を聞いたら、この部屋にいるって言うから様子を見に来たんだよ。何故自分の部屋で仕事をしないんだ?」二階堂は不思議そうな顔で尋ねる。「気が散るからですよ……」「え? 気が散る? そんなに窓ふきされると気が散るのか? お前は」「いいえ、俺じゃありません。彼女の気が散るからです」「彼女? 彼女って……あの清掃員スタッフのことか?」「……」琢磨は黙って頷いた。「お前……気を使い過ぎだろう? 彼女は仕事で来てるんだ。今までだって多くの会社で窓ふきをしてきたはずだ。人の視線なんか気にならないだろ……って。……もしかしてお前……」二階堂の顔が何やら意味深にニヤケる。「な、何ですか!? 社長……何か言いたいんですか!?」つい、琢磨の声に焦りが出る。「いや、別に。まぁいい。お前を尋ねたのは仕事の話があったからだ。どれ、座るぞ」二階堂は折りたたみ椅子を運んでくると机を挟んで琢磨の向かい側に座り、早速仕事の話をはじめた――****――コンコン部屋の外でノックの音がした。「ん? 誰か来たようなだ?」二階堂が対応しようと腰を上げると、琢磨は慌てた。「社長、俺が出るので座っていてください」琢磨は素早く立ち上がるとドアへ向かう。その様子を二階堂はじっと見つめていた。ガチャリとドアを開けると、やはりそこに立っていたのは舞だった。「お待たせいたしました。お掃除終わりました」「ああ、どうもありがとうございます」「はい、それでは失礼します」頭を下げて立ち去ろうとする舞を近くにやってきた二階堂は引き留めた。「あの、少し待っていただけますか?」「はい? 何でしょうか?」舞は不思議そうな顔で二階堂を見た。「私の部屋の掃除もお願いできないでしょうか? ここから2つ先の部屋になるのですが」「え?」舞の顔に戸惑いの表情が浮かぶ。それを傍で見ていた琢磨は心の中で舌打